慢性疼痛消化器
消化性潰瘍、過敏性腸症候群といったストレスに関連する代表的疾患で知られているように、ストレス状態での情動と消化器疾患との関連については九州大学心療内科の初代教授である池見酉次郎先生の時代より示唆されてきています。九州大学病院心療内科の慢性疼痛消化器研究室では、ストレスに関連している消化器疾患や消化器に起因する慢性の痛み(慢性疼痛あるいは疼痛性障害)のみならず、消化器に直接起因しない体の部位の慢性の痛みも治療対象として、九州あるいは全国各地の医療機関から紹介を受けた慢性疼痛遷延例に対しての診療を行い、その治療経験の蓄積を行っています。そして、そういった疾患群の診療に役立つ多面的な評価法を開発し、器質的・機能的・心理社会的病態相互の関連を明確にして、医師・看護師・臨床心理士などのチームアプローチによる有効な治療法を開発、実践しています。
当研究室からは、九州大学医学部心療内科の第2代教授であった中川哲也先生(初代消化器班主任)、関西医科大学心療内科初代教授であった中井吉英先生(第2代消化器班主任)、現在の福岡大学薬学部臨床心身治療学教授の美根和典先生(第3代消化器班主任)を初めとして、心身医学の発展に多大な貢献をしておられる多くの心療内科医を輩出してきています。そういった活発な研究室の伝統を受け継ぎ、安藤勝己先生(第4代消化器班主任、現安藤内科院長)による運営を経て、2004年4月より現体制(第5代<慢性疼痛>消化器班細井昌子主任)となり、臨床・教育・教育において活発な活動を続けております。時代の動きに即した心身医学の発展に寄与すべく、慢性疼痛症例の増加に伴い、消化器研究室という名称から2010年4月に現在の慢性疼痛消化器研究室へ名称が刷新されました。さらに、九州大学大学院医学研究院環境医学分野が1961年から行っている久山町疫学研究に2010年夏からストレス健診という形で参加し、生活習慣病や慢性疼痛に関する心身医学的疫学研究を開始しています。
臨床について
対象疾患
- 1)慢性疼痛あるいは疼痛性障害(筋筋膜性疼痛,線維筋痛症,舌痛症,腰痛症,術後痛などの身体疾患の合併例を含む)
- 痛みは、感覚と感情の両方の側面があり、両方が不可分の混合体となっています。器質的・機能的な身体疾患による痛みを基礎に発症した慢性疼痛でも、遷延化に伴い医療や周囲への不信感が増し、経時的に心理学的要素への対応も重要となっていく慢性疼痛遷延例もあります。痛み症状や苦悩の準備因子・発症因子・持続増悪因子について、全人的理解に則り明らかにしていくなかで、病状への対処法を各症例で明らかにしていくことが大切です。
- 2)過敏性腸症候群
- ストレス(環境の変化や悩み事、心配事)で下痢になったり便秘になったり、腹痛が生じることがあります。ストレスが脳を介して消化器に影響をおよぼすことが知られています。
- 3)Functional Dyspepsia
- 上部消化管内視鏡検査や上腹部エコー検査をしても潰瘍や炎症などの異常がないにもかかわらず、膨満感や胃もたれ、みぞおちの痛みといった不快な症状が続くことがあります。これは“気のせい”や“精神的なもの”などではなく、ストレスが関連したFunctional Dyspepsiaという上部消化管の運動機能異常疾患の可能性があります。
- 4)機能性食道障害 (びまん性食道痙攣、ナットクラッカー食道などの非心臓性胸痛を含む)
- 間欠的な胸の痛みや嚥下障害、嘔気嘔吐といった症状があるにも関わらず、原因が分からない患者さんのなかで、これらの食道疾患が隠されていることがあります。
- 5)機能性腹痛症候群
- 腸の検査やX線、CT検査をしても腸炎がないにも関わらず、ストレス(環境の変化や悩み事、心配事)で、お腹が張ったり、腹痛が生じたりすることがあります。
- 6)口腔心身症 (口腔異常感症、舌痛症)
- 口内炎や腫瘍がないにもかかわらず、口の中や舌の違和感やヒリヒリ、ピリピリした感覚が出現することがあります。
上記対象疾患に対する治療
- 薬物療法
- 向精神薬(抗うつ薬や抗不安薬),抗けいれん薬,漢方薬の有効利用など
- 非薬物療法
- 支持的カウンセリング、自律訓練法・認知行動療法(マインドフルネスやACT: Acceptance and Commitment Therapyを含む)の個人指導および集団療法、交流分析、芸術療法、家族療法,そのほか代替医療など、遷延例に対する適応を行い、有効な治療法の組み合わせによる多面的段階的治療の実践・開発を行っています。
研究について
- 生活習慣病とアレキシサイミア,養育スタイルおよび肯定的感情に関する臨床的および疫学研究
- 慢性疼痛に関する既存資料を用いた共同後ろ向き観察研究
- 慢性疼痛における破局化に関する研究
- 慢性疼痛の評価法の開発 (臨床心理研究室と共同研究)
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<日本語版の開発>
(1) Short-form McGill Questionnaire: SF-MPQ 痛みの自覚的強度の評価
(2) Chronic Pain Coping Inventory: CPCI 慢性疼痛対処法質問紙
(3) Survey of Pain Attitude: SOPA 痛み態度質問紙
<九州大学心療内科による評価法の開発>
(1) Pain Disability Assessment Scale: PDAS(疼痛生活障害尺度)の妥当性・信頼性の研究・因子分析
(2) Pictorial Representation of Illness and Self Measure-Kyushu University Version: PRISM-KVによる慢性疼痛の心理社会的背景の評価
- 慢性疼痛の治療法の開発:慢性疼痛症例に対する各種療法の適用に関する臨床例の蓄積
- そのほか、理学的所見として重要な身体各部の圧痛所見の解析、慢性疼痛や消化器心身症における自律神経機能も評価を行っています。
さらに、九州大学病院のペインクリニック(麻酔科蘇生科)や歯科医療センターとの連携を密にして、良質な集学的アプローチを模索しています。
当研究室出身の嶋本正弥医師(九州大学がんセンター所属)は,緩和ケアにおいて、心身医学およびサイコオンコロジーを基礎とした活動を行っています。
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2010年3月13日発行日本医事新報 №4481:59-60
<2010年度 新春特集 臨床医学の展望 慢性疼痛>より引用
2001年に始まった米国における国家的プロジェクトである痛みの10年 (Decade of Pain Control and Research) が2010年に終わる。米国のみならず国際的に痛みの研究が盛んになった10年の最終局面とも言える2009年6月25日に世界的に有名な米国のポップスター、Michael Jacksonが急死し、彼が生前鎮痛薬や向精神薬乱用状態にあったことが報道された。静注麻薬デメロールや静注麻酔導入薬プロポフォールの使用が話題となっている中、死後に公表された映画の中での死直前の活動度の高さを観察すると、彼の行動パターンが慢性疼痛典型例の極限であることが理解される。
完璧主義と過活動による交感神経系の過緊張により脳の興奮性が極端に上がった状態で、本人の希望する卓越した活動度の維持のために向精神薬が大量に使用され、使用が増大する。日常活動リズム調整に関する概念である「Pacing」の障害1)という言葉で解釈される過活動性が問題であり、Pacingの障害の背景に生育歴やトラウマに基づく陰性感情の蓄積による情動障害や完璧主義などの認知の問題があると考えられる。彼に象徴されるような認知行動特性を基盤とした症例群として線維筋痛症があげられるが、認知行動療法や精神分析療法などの心理学的治療と、薬理学などを含んだ身体医学を統合した医学としての心身医学が学問的にどのような提起をできるのか、それが問われている時代に突入している。
fMRIなどの脳画像研究が盛んになったことから、怒りなどの陰性感情の際に活動する脳部位である扁桃体、前部帯状回や島皮質が、痛みの不快情動に直接関与する脳部位でもあることが知見として確立してきている2)。とくに、妬み感情の程度と背側前部帯状回の活性化は相関し、妬んでいた相手の失脚を喜ぶ時に、神経学的に報酬系として知られている外側線条体および内側眼窩前頭野が活動していることを示した研究3)が発表され、ヒトが社会的動物として進化する中で獲得した神経回路としての「social pain」という概念が学問的に提起されたことは、慢性疼痛の心身医学における興味深い基礎概念の進歩と言える。
痛みに関する国際的学術組織である国際疼痛学会は、2009年10月から2010年10月までの1年をGlobal Year against Musculoskeletal Painとして、世界的なキャンペーンを開始している。超高齢化社会に突入している日本において、Locomotive Syndromeと呼ばれている腰、膝、股関節などの運動器の問題が生じることで、日常生活障害から要介護の状態へ進展する。寝たきり状態となった家族の世話をする介護者にさらなる運動器の痛みが生じるという悪循環が起こっている。
大学病院心療内科を受診する慢性疼痛症例の平均年齢は40代後半であるが、この世代から膝や腰あるいは全身の筋肉痛の症状が顕在化する。感情を表す言語表現が障害された「失感情症」は、心身症の中心概念であるが、線維筋痛症において、失感情症の感情同定困難は痛みの感情成分、痛みの耐性や心気的疾病行動に相関するという結果が報告され4)、痛みと失感情症に関する知見がさらに強化された。生活障害に進展する痛み苦悩体験に失感情症が関与しているというエビデンスをさらに発展させ、感情同定困難傾向に対して、心身医学的介入により痛み苦悩や痛みによる生活障害が実際にどう改善するかについてのエビデンスが確立することが望まれる。<九州大学病院 心療内科 細井昌子>
文献
1. Gill JR et al.: Eur J Pain. 13(2):214-6, 2009
2. 細井昌子:治療―慢性疼痛診療ガイドー, 90(7): 2063-2072, 2008
3. Takahashi H et al.: Science. 323 (5916): 937-939, 2009
4. Huber A et al.: J Psychosom Res. 66(5):425-33, 2009